栃木
栃木県 (とちぎけん) は、日本の都道府県の一つで、関東地方北部(北関東)に位置する内陸県。 東は茨城、西は群馬、南は埼玉、北は福島の各県と接している。県庁所在地は宇都宮市。
この地域は古くは群馬県とともに「毛の国」を構成し、これを上下に分かって「下毛野国(しもつけぬのくに)」「下野国(しもつけのくに)」が成立し、唐名では「野州(やしゅう)」と称する。現在でも「下野(しもつけ)」の呼称が広く使われている。
関東地方の北部に位置し、面積は6,408.28km2で全国第20位(関東最大の県)、東西約84km・南北約98km。県都宇都宮市は、東京から90km、JR東北新幹線で約50分の位置にあり、地方中核都市の指定を受けている。
東部の八溝山地、北部から西部にかけての那須連山・帝釈山地・足尾山地の山岳地帯と、県中央部の那珂川・鬼怒川・渡良瀬川の沿岸平野部の3地域に大別される。
東部の八溝山地は標高600〜1,000mのなだらかな丘陵地。
北部から西部にかけての山岳地帯は日光国立公園に指定されており、日光・鬼怒川・川治・塩原・那須などの観光地がある。
那須連山は、那須・高原・男体の諸火山が連なるけわしい山岳地帯で、標高2,000m以上の山脈が関東の北限を形成し、瀑布や湖沼が点在している。また、諸河川の源にもなっており、鬼怒川は中央部を、渡良瀬川は群馬県との県境を流れ利根川に合流し、那珂川は八溝地域から東折し茨城県に入り、ともに太平洋に注いでいる。
栃木の歴史
大和朝廷の勢力が東へ拡大したころは、下毛野(しもつけぬ)国と那須国があり、7世紀後半に統一されて下野国、すなわち栃木県の原型が形作られた。下野国は9郡に分かれ、政治の中心として国府が置かれた。国府付近には、国分寺・国分尼寺・下野薬師寺がつくられ、都から伝えられた華やかな文化が栄えた。
日光開山の祖と知られる勝道上人は、下野薬師寺で5年間修行した後、二荒(男体)山頂を目指して日光に入り、766年対岸に輪王寺の起こりとされる四本龍寺を建立、日光山を開いた。782年には、3度目の試みで山頂に達し、その後、神宮寺(現在の中善寺)や二荒山神社を建立、日光1200年の原点を築いた。「日光」という地名は二荒(ふたら)を音読した「にこう」に佳字をあてたものである。
鎌倉幕府が成立すると、小山・宇都宮・足利・那須などの下野の武士も御家人として活躍、なかでも小山氏は下野国の守護をつとめ、一族は結城・長沼等に分かれて栄えた。足利荘に本拠を置いた足利氏は鎌倉北条氏に仕えるが、足利尊氏の代に後醍醐天皇の挙兵に応じて鎌倉幕府の討幕運動に参加する。尊氏は後醍醐天皇の建武の新政からは離反し、北朝を建てて幕府を開き、室町時代には足利将軍家となる。また、宇都宮氏の「宇都宮歌壇」は都までその名声をうたわれ、足利学校は「坂東の大学」として宣教師によってヨーロッパにまで隆盛の様子が伝えられている。
徳川家康が江戸幕府を開くと、中世以来の豪族は相次いで下野から姿を消し、天領や旗本領に細分化され大名や旗本が支配するようになった。日光は幕府の聖地として、東照宮をはじめとする華麗な建物が作られ、特別に保護、崇敬された。
二宮尊徳は、近世後期の荒廃した農村のたて直しを図るため、桜町(現在の二宮町)の旗本領の復興につとめ、以後各地で報徳仕法と呼ばれる改革事業を実施した。
戊辰戦争では宇都宮など北関東における戦役の舞台となり、明治維新を迎えると政府は、中央集権をおし進めるため廃藩置県を断行、旧来の封建支配の一掃を図った。さらに県の整理統合が進められ1873年(明治6年)6月15日に今日の栃木県が成立。県庁は栃木町に置かれたが1884年(明治17年)、宇都宮町に移された。 |